誓願寺で片桐且元の板挟みの人生を想う
誓願寺とは
大鈩(おおだたら)山誓願寺は、静岡市駿河区丸子にあるお寺です。
建久年間(1190~99)に、源頼朝が両親追善のために建立したとされています。
その後、天文年間(1532~55)に戦火により焼失、永禄11年(1568)武田信玄により再建されたそうです。(以上、現地の看板より)
同じ永禄年間には、臨済寺(葵区大岩町)の末寺として名前が上がっています
なお、本堂にあった幕に葵の紋が入っていたことから、近世には徳川氏からも庇護を受けていたと思われます。
頼朝創建というと、同じ源氏を名乗るものとしては大事にしなくてはならない、という感じでしょうか。
現在の宗派は臨済宗です。
国道一号線から少し北の谷の入り口付近に位置しています。
誓願寺と片桐且元
その後、誓願寺が歴史の表舞台に顔を出すのは慶長19年(1614)、いわゆる方広寺銘文事件の時です。
豊臣秀吉追善のために鋳造された方広寺の鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」が徳川家を呪詛していると言いがかりをつけられ、結局大坂の陣につながった事件です。
この際、徳川家への申し開きの為駿府に派遣された豊臣方の片桐且元が滞在していたのが、この誓願寺だったというのです。
徳川家と伝手のあった且元ですが、 徳川方からは 家康と面会もできないなど冷たくあしらわれ、一方の豊臣方からは徳川方への内通を疑われ、結局進退窮まって大坂城からの退去を余儀なくされたのです。
もちろん、且元の立場がどうだったのか、本当のところはわかりませんが、一般的に考えられているように、両者の板挟みで身も細るような日々だったのかなぁと想像してしまいます。
誓願寺に眠る片桐且元
そんな且元の墓が、この誓願寺にもあるというのです。
案内板に沿って進んでいくと、本堂の左側の墓地の中に、2基の無縫塔が並んでいました。
向かって左が且元の、右がその妻のものだとのことです。
苔むしており、銘文があるのかどうかは、判読できませんでした。
この墓、亡くなった当時のものではなく、且元の甥(且元の弟貞隆の子)にあたる片桐貞昌によって建てられたものだそうです。
ちなみにこの貞昌、片桐石州として、茶道石州流の祖として知られているそうです。
人生の中で苦しい数週間を過ごしたこの誓願寺に伯父夫婦の墓を建てた石州の心情は如何だったか、また当の且元自身はどう感じているのか、想像を掻き立てられます。
誓願寺とモリアオガエル
片桐且元の墓と並んで誓願寺で有名なものに、モリアオガエルがあります。
池の上の木の枝に卵を産み付けるという独特の産卵法で知られるモリアオガエル、本堂右手の古池に生息しており、5~7月にはその産卵の様子が見られるということです。
誓願寺への交通と駐車場
誓願寺へは、国道一号バイパス二軒屋交差点を北西に入り、川沿いに進んで最初の橋を左に入ったら到着します。
交差点を曲がったところと橋のところに案内表示があり、分かりやすいです。
駐車場は広く、40台ほど駐車可能です。
また、駐車場に隣接してトイレもあります。
参拝のための駐車は無料でできますが、法事などで混雑しているようなら遠慮したほうがいいかもしれません。
その場合、バイパスを東に進むと駿府匠宿の駐車場があります(200円)。
平地を歩いたら15分、ハイキングコースで丸子城跡を経由しても30分ほどで誓願寺まで行くことができます。
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